Cure of GAS

Castle Rock Photography

日々について淡々と書きとめてます。

床が外れた京都について

先日ニュースで貴船の川床が外れたというのをみた。

てっきりオーバーツーリズムで積載オーバーしたのかと思ったが、連日の雨での災難。負傷者は、まあ重症でなくて何よりという感じだ。

そんなニュースをみながら、ああ以前この辺りを散歩したことを思い出して懐かしくなった。

Kamo river, Kyoto

学生時代を京都で過ごし、おまけに母親が京都生まれの私にとって京都は第二の故郷である。現在は関東住まいだが、以前は毎年のように京都にぶらぶらと遊びに行っていた。

遊びといっても何をするわけでもない、ただ学生時代を懐かしむかのように今出川から御所を抜け、丸太町、寺町のカフェでお茶をして、ハードバップでジャズレコードを漁り、そのまま三条へ。今は無き京都ロイヤルホテルの地下でトイレ休憩をしたら四条、先斗町木屋町へ抜ける。

先に北山へいくこともある。そこから左京右京どちらかのルートで、哲学の道を通って南禅寺、そこから市内中心へ向かう。

基本は歩いて、疲れたら適当なバスに乗って歩を進める。

四季いつ来ても素晴らしい街。

夏は暑いが、それが京都らしい。春はなぜか新歓コンパを思い出して胸がざわめく。秋は最も大好きな季節で、グレーのヘンリボーンコートを着て緑黄色のイチョウの葉で飾られた小径を歩くだけで幸せな気分になる。 冬はお寺で飲む甘酒が心を温かくする。

Kamo River, Kyoto

残念ながら現在はもう行くことがなくなってしまった街。

行きつけだった木屋町のバーのマスターが周辺環境の悪化を嘆いた頃からその傾向はあった。 行くたびに変わる景色。 そしてつい数年前、すっかり様変わりした街と余裕のない人々、そして交通の不便さに嫌気がさした。

もう私の知っている京都じゃないな、そんな気がした。

よく使っていたホテルも、もう今は無くなってしまった。 古い建物だったが中は清潔で、窓を開けると平安女学院大学がみえた。清麗潔白な乙女たちが学ぶ宿舎に、かつて邪(よこしま)な考えを持った若かりし日の自分に恥、悔い改めるのにも好都合なホテルだった。

Village north of Kyoto

もちろん原因は私自身にもある。 歳をとるにつれて色々と億劫になる。まあ国内海外含めて行きたいとこは行ったし、という気もある。

夫婦二人と猫のいる家の居心地は悪くない。

休日は文字通りダラダラと過ごしている。 何もしない休日。

Kamo river, Kyoto

※写真はLeica Qで撮ったものです。コンパクトでいいカメラでした。今度発売するRX1RIIIも旅に良さそうですね。笑。

 

フィルムカメラブームは終わりつつある?について

先日の七夕の日の記事、

を読んだ感想。

昨年、妻から、友人の娘のなになにちゃんは大学生で、スマホではなく、なんとかというフィルムカメラで、なんとかのサークルの何かの集まりを撮っているという話をきいた。

その時私はアマプラか何かで『バニラスカイ』を観ていて、このsomethingやwhatの連続する妻トークに耳を傾けるフリをしながら『ペネロペさんってなんでこんなに可愛いんだ』とトムクルーズに嫉妬すら覚えていたわけだ。

我が家のいつもの日常である。

しばらくタブレットをいじっていた妻が、予想通り、「これみて」と画面を差し出してきた。ラインに送られてきた数枚の写真。 そこには確かに何かのサークルらしき何かの集まりで、楽しそうにする女子大学生達がフラッシュをたかれた赤目でこちらをみていた。

まあ確かにこれは、なんだか楽しそうだわ!

さらにこれは間違いなくフィルムライク、ではなくフィルム写真だと直感でわかった。ハイライトとシャドーをみればすぐにわかるし、シュミレーションで赤目は流石にないだろう。

私は、「へえ」と何気なく返事をした。それから思わず「いつまで続くかな」と言った。

Through the window

その娘さんが今も継続的にフィルムで撮っているかどうかはわからないが、それ以降写真の更新はないように思える。

今の若い世代は、とにかくショート主義である。短時間内にどれだけ報酬を得られるのか、それをタイパだとか、コスパだとか言う。フィルム撮影と現像とスキャンニングはその対極にある行為で、平均的な若者が没頭するには無理があるだろう。またそれに見合った報酬も望めない。

ブームは去ったのか?そもそもブームなんてあったのか。

先日某カメラ屋からメールで連絡があった。リストに入れていたフィルムカメラが価格変更されたとのことで、まあフィルムカメラなんだからてっきり価格が下がったのだろうと思いきや、 

www.mapcamera.com

この値段で、おまけにフィルムライカを誰が買うのだろうか。 ライカで家が建つ、とまではいかないが、まるで1950年代に戻ったみたい、か。

もちろんライカが全てではないが、もう少し若者に夢をみさせるようにハイエンド製品の価格設定と潤沢なフィルムインフラ環境になれば、本当のブームが来るのかも。

 

なんとなくギターを始めた。

なんとなくギターを始めた。

正確には、再開したといった方がいい。25年ぶりだ。

ボロボロのハードケースに保管していたガットギターを手に取り爪弾いてみる。 不思議といくつかのコードは覚えている。

スチール弦はサビつきナイロン弦のチューニングは容易に合わない。 指先に痛みを感じながらも、20代の青春を取り戻すかのようにスリーコード、フォーコード、と記憶を頼りに和音進行へ身体を委ねる。

あっという間に時間が過ぎて、もうこれ以上記憶からは何も引き出せないことが分かった瞬間、青春時代は短かったんだなと悟る。

何かを始めるためには何かを捨てなければならない

もう随分と昔から、いやというほど分かっていた事実だが、昔のアルバムをめくるように、弦の振動を感じ、ボディの共鳴で踊る身体に、人生の後半を少しだけ貸しだすのも悪くないと思っている。

 

まずは弦を、張り替えようか。

 

 

 

仕事で写真を撮るようになったことについて

最近仕事で写真を撮ることが多くなってきた。

といえばなんだか聞こえはいいが、実際は報酬をもらってではなく、包括業務、いや、業務包括か?まあ要するに会社の業務の一環として写真を撮る、ということで、職業カメラマンのように撮影料をもらって撮ることとは全く異なる。給料も上がらないし、賞与にも反映されない。

事の経緯は単純で、今勤めている会社がパンフレットやwebで広報をする際にこれまでカメラマンを雇っていたのだが、おおよそ1日束縛で費用は10万である。

これを疑問に思った新役員なり、上層部の人間が私に相談にきたわけだ。

相談内容は

この写真は本当にプロクオリティーなのか?

10万は適切なのか? で、最後に

この写真を君は撮ることができるのか?

である。

正直これらの質問は全て、最後の質問(この写真を君は撮ることができるのか?)への布石であり、収束への誘導。下世話な要求をオブラートするためのレトリックであることを私は確信していた。 要するに、撮るなら当然仕事の一環としてなので、もちろん無料でということだよーん、という感じである。以下質問への私の回答を書き留めたい。

 

この写真はプロクオリティーなのか?

正直わからない、と答えた。なにを持ってプロクオリティとするかの判断が私にはもはや出来そうにないからだ。というのは、こんなブログやってて、プロアマ限らず嫌ほどハイクオリティな写真を日々目にしていて、フィルムのザラつきやブレ、眠たい写真すらまるで、モネの絵画のように(たとえが変か?)芸術だと思うような自分がいて、プロクオリティ=普通の写真にしかみえない。

「いい写真ですよ、綺麗にとれてるし、3000pxの300dpiもクリアできてるし、明るいし」

そんな返答をしたのを覚えている。

私は一度その撮影現場に居合わせたことがある。カメラマンは比較的若い男性で、みるからに重そうなプロフォトのロケットランチャーみたいなライトとニコンのカメラを持っていた。レンズは大三元などではなく、いわゆる廉価版。理由は軽いから、らしい。まあそりゃそうだろう。 移動が主の職業カメラマンにとって軽さは正義。趣味で1300gもするF1.2大口径レンズをチョイスするのとは訳がちがう。

彼はライティングが非常に巧かった。ほとんど失敗する事なく適正露出で全ての写真を撮った。これは簡単そうで難しい。そういった意味ではプロクオリティの写真だろう、な。

 

10万は適切なのか?

いきなりだが、私は妻と挙式をあげていない。お金もなかったし、そんな余裕すらなかった。代わりにチャペルみたいなとこで写真を数枚撮った。その時に提示されたのが10万円だったと思う。なのでこの金額は相場か、ひょっとしたらリーズナブルかもしれないというのが本音だ。それで答えた。

「まあ、それくらいは、かかりますよ。夏場でもハーハー言って重い機材持って歩いてるわけだし。撮った後でも編集やデータ保管のコストやリスクもありますし....」

「うちのアルバイトさんの日当は1万1千円なんだがね」役員のひとりが言った。「その10倍の価値があるのか?」

 

この言葉で、まだ20代の頃、冷蔵庫内でアルバイトしたことを思い出した。冷蔵庫といってももちろん家庭用ではない(あたりまえか)、冷蔵の倉庫である。

映画ロッキーに出てくるような牛さんがぶら下がっている、あんなのをイメージしてほしい。ある派遣会社での登録で降りてきた仕事だ。それで日当が8千円だったと思う。実際は1万5千円くらいで胴元が中抜きしていたのは間違いないけど。

仕事はきつかった。肉体労働なので体がすぐに熱くなるので上着を脱ぐのだが、ものの数分で凍えるように寒くなる。低体温症にならないように頻繁に外に出る。外は真夏の気温。喉がやけに乾いてリッターのペットボトルの水があっという間に無くなる。それを繰り返していると身体のホメオスタシスがバグる。まるで赤銅色に燃える鋼に水をかけて鍛えるように、肉体的精神的にタフになった、といっても二日で辞めたけど。誇張ではなく1日で体重が2キロ近く減ったのを覚えている。

写真撮影はその10倍の労力が必要な仕事なのか?

こういったことは突き詰めると、訳がわからなくなる。 ブルシット理論?エッセンシャルワーカー?まあ、どうでもいい、か。

 

この写真を君は撮ることができるのか?

会社にあるカメラはEOS 6DMKII、レンズはタムロンの廉価版。あとはレフ版が少しと貧弱なライトボックス。撮れないことはない。もちろん、少なくとも一般人がみて違和感のない綺麗な写真くらいは撮れる。

Hotel, Scotland

「よろしく頼むよ」役員が言った。

私は咄嗟にブラピ主演の映画『Ad Astra』のセリフを思い出した。

ブラピ扮する ロイ・マクブライド少佐はある重要なミッションを上官から頼まれて、心の中でこう呟く...

Are you with us? Like I have a choice...

(やってくれるか、だと? やれってことだろ...)

 

私が思わずニヤけながら承諾したことをお伝えしておきたい。

 

 

オリンパスの夢と映画『パーフェクトデイズ』

表題、アマプラで無料だったので観た。

率直な感想としては、まあいい雰囲気の映画だったと思う。

バックグラウンドが全く不明の主人公の日常が、まるで九龍城砦のように高度経済成長の波に取り残されてしまったような下町風情と共に仔細と曖昧さの狭間で粒状感をもってドキュメンタリータッチに描かれて……

と、まあこんな感じで評論できるのだろうけど、残念ながら私はこういったジャンルに知悉(ちしつ)しているわけではないので、ここはティーンエージャーなみにシンプルに、いい雰囲気だった、と感想を述べたい。

実際、この映画、全くの先入観を持たずにみたのだが、出だしから4:3のアスペクト比で、当然本編に入るにつれて16:9になるのだろうと予想していたのだが(こういうのはよくあるので)、最後まで比率は変わらなかった。

それでふと、この映画フィルムで撮られたのかな?と考えた。

特に光、明け方のアンダーなハイライトをおもいきり持ち上げた時のパープルに似た色合いや、よく見ると粒状感もある、さらに主人公はフィルムカメラが趣味ではないか!

と、推測が確信に変わり、映画を見終わったあとで、これは私の勝手な想像だったことがわかる。

記事によると監督は初めフィルム撮影を試みたらしいのだが、時間とあらゆるコストで断念した、と書かれている。さらにフィルムの持ち運びの問題点、特に航空機移動ではX線でフィルムを何本もダメにしたなど、これは私も大いに経験があるので、その気持ちわかりますよカントク。

もちろんこの事実(フィルムではなくデジタル撮影)を知ったからといって映画の評価に影響するものでは全くない。フィルムだろうがデジタルだろうが、絵、そのものが全てなので。

もっとも今の時代、果てしない量のフィルムロールを消費してきちんとした映画を撮ろうなど、ほとんど不可能に近いだろうから、こちらとしても、最近の映画が何で撮られたかなど気にもとめていない。今回はたまたま、なんとなくそういう雰囲気だったので、そうかな、と思っただけである。これが監督の狙いなら見事に的中しただろう。少なくとも私には。

ところで、主人公のカメラだが、これはオリンパスミュー。休憩時間に胸ポケットから取り出して、日常の、まあ美しい瞬間、木漏れ日などの写真を撮っている。

drizzle

個人的にはもっとメカニカルなカメラでもいいかと思ったが、まあここで(質素な生活の主人公が)ズミクロン35mmあたりを搭載したライカをジャーンッと取り出して撮るというのも違和感があるので、これはこれでいい感じ。

現像とプリントも毎週?行きつけの写真店で行う。そして写真の選別。ボツ作品は容赦なく破り捨てる。主人公は他にも洋楽や小説も趣味にしている、この辺りに主人公の謎多いバックグラウンドに裏打ちされたインテリジェンスが感じられる。

しかし、現実的に毎週現像、プリントをしていたのでは、下手したら住んでいる下町のアパートの家賃代くらいかかるのでは、と余計な心配をしてしまった。そしてボツプリントを破る勇気。潔さでは賞賛に値するが、私にはとてもできない。最近のプリント代を考えると尚更。もちろん映画はフィクション。私の戯言などレビューにすらならない。

話を戻そう。

このオリンパスミューをみた時、ふと脳裏をよぎった。あれ?これ家になかったけっけ?

「このカメラ、持ってなかった?」 妻「カメラ?黒いやつ?」 「そう、確かお義父さんの...」

妻の父親は10年前に亡くなっていて、遺品の中にカメラがあったのだ。すっかり忘れていたが、思わぬとこでフラッシュバックした。

AZ-2000

結局カメラはミューではなかったが、まあ同時期に生産されたものだろう。

1993年、お義父さんはこのカメラで何百ロールもの想い出を作った。ファインダーや電池ボックスは大変綺麗で、まだ十分に使えそうだ。 こういったある意味でチープなカメラを気兼ねなく持ち出して日常をモノクロで撮る、悪くない。休日を利用していっちょう試してみるか。

私にとって映画『パーフェクトデイズ』は、お義父さんとの想い出でまでも(といっても訳あって義父とはほとんど接点がなかったのだが)、描いた、いい雰囲気の映画。

フィルムカメラ好きは是非どうぞ。

良いお年をお過ごしください。

 

 

FOMO(失うことの恐怖)について

FOMOとはFear of missing out、つまり失うことの恐怖という意味だが、SNSなど他人のキラキラが目について自分もこの機会を失う(失っている)のではないか、という心理的なバランスの崩壊を表す言葉である。

そしてこれに購買というキーワードを付け加えると

”失うことの恐怖...から購買をしてしまう”

という人の心理を表す言葉となる。今日はそのことについて。

ちなみにもっと高尚な心理不安である、愛する人やペットを失うという恐怖については喪失は共通しているが、カテゴリーとしてはこちらは分離不安(Separation Anxiety) や 見捨てられ不安(Abandonment Anxiety) として分類される。FOMOはもっとカジュアルである。

カメラでもレアもの、一点もの、今後値上がりするもの、製造数の少ないもの、年代の割に状態の良いもの、ビンテージでも露出計が正常に動くM6などなど、今このチャンスを逃したら2度と手に入らない、と思って時に大金を払って(ローンを組んで)まで手に入れようとする消費者心理。

そしてこのFOMOは、実際私も経験したことがあるが、一度本当に喪失を経験すると、次回からこの行動が加速する傾向がある。

昨年、状態の良いハッセルが(おまけにクロムではなくブラック)が売りに出された。いや正確には売りに出される予定だった。ハッセルも最近ではライカ並みにおかしな値段になってきているので数十万前後で買えるモデル(ただしレンズは別だが)は希少だ。それでちょくちょくサイトを覗いて販売開始(どうもオーバーホールに出していたらしい)となるのを待っていた。

ある朝、サイトを覗くと販売中となっていた。そしてまあよくあることだが、なぜか思いとどまった。そもそもレンズ、私の好きな80/2.8が手に入るのだろうか、などなど急に躊躇(要するにヒヨった)してしまい、とりあえず仕事に行って帰宅してもう一度考えようと、保留した。

休憩時間、サイトを覗くとまだ売れていない。退勤時、売れていない。まあこんなもの誰も買わないだろう、それで帰宅して湯船に浸かり、アサヒスーパードライをクッと飲んで、さあ、買うか、とサイトを覗くと、SOLD OUT。

アルコールの粒子が毛穴を広げ、体から湯気が出るような気がした。もう一人いた。そんな気がした。もう一人の私、そいつがおそらくシンリンオオカミのごとく夜の闇に潜み張り込んでいたのだろう、そして潤沢な予算の牙でガブリとひと噛み。

あーやられた。

そんな気分だった。躊躇したのが悪。決断は速やかに。悩んでいる時間がもったいないだろ?と車好きで購買を繰り返している悪友がかつて私にいった言葉がリフレインされる。

それ以来私の購買行動は(もちろん限度はあるが)以前よりも早くなった。

逆に私が、誰かのスイッチを入れてしまったこともある。

老舗店舗で見つけたライカM6。当時はまだ20万円台で買えた。シャッターフィールというか巻き上げが大変良い。それでその場で購入の意思を伝えると、オーナーが少し悲しそうな顔をした。なんでも、私が来店する数分前に別のお客さん(まだ若い男性)が来て、このM6を欲しそうにしていたらしい。

しかしやはり高価だから(まあ学生には高価だろう)少し考えるけど、すぐに戻ってくるかもしれない、今日中ならまだ売れていないですよね、ライカM6は僕の夢なんです、うんぬん。

「まあ...仕方ないですね」

私がいうと、散々修羅場をくぐってきた初老のオーナーはもう顔色ひとつ変えずに計算機を叩いていた。「だね。仕方ない。こればかりは」

少し値引きしてもらい購入。

彼は、この複雑な心理を嫌というほど経験しただろう。そしてFOMOの出来上がり。

次回からは失敗するなよ、と老婆心ながら彼にエールを送った。

Nothing's gonna change...

Leica M6 / Summilux35mm

 

 

 

旅先で飲むお酒は1杯

最近旅に出てもお酒をあまり飲まなくなった。

禁酒や節酒のように自発的に止めているのと違って、身体が(大量の)アルコールを受け付けなくなっていて、要するに飲みたくない。

といっても全く飲まないわけではない。

ワンドリンクサービスがあれば白ワインを頼むし、地域によっては地酒を1合ほど飲む。

旅の疲れや知らない土地に来た緊張感を和らげるのにお酒は最適だし、食前酒のように、程よい鈍感さと鋭敏さが備わった舌で味わう料理は美味しい。

しかし不思議とそれ以上は(店員さんには申し訳ないけど)欲しくもないし、実際にはこれで十分。そして何より、食後が楽である。

私の場合、例えば温泉宿に到着するとまずひと風呂浴びる。自宅でも風呂は夕食前に入ることが常なので、これはまあ自然のことなのだが、温泉宿ではさらに食後にも浸かるようにしている。せっかくの天然温泉に来ているのだから何度か楽しみたい。

フグのお刺身ってなんでこんなに美味しいのでしょうかね

それで食後の入浴だが、この時酔いすぎているとまずは間違いなくのぼせる。視点を変えるとこれは気持ち良い感覚でもあるのだが、やはり身体は相当のダメージを受けるようで、部屋に戻ってバタンキュー(古い)である。会話もあったものではない。

これがほどほどに飲んでいる時は夜の肌寒い露天を心ゆくまで楽しめたり、部屋に戻った後でベランダで涼みながら虫の音を聞くこともできる。うまくいけば夜空の写真を撮りに散歩に出かけることもできるかもしれない。

この”旅先でお酒は1杯だけ”のさらに良い点は翌朝である。

これは私だけではなくアジア人種特有の問題だと思うが、飲みすぎた翌朝はほとんどの場合二日酔いに似ただるさを感じるだろう。こうなると本当に旅自体が台無しとなるところだが、やはりこれも、元気一杯とはいかないが(これは歳のせいでどうにもならない)、笑顔で家族に挨拶をして朝日に勇気づけられながら朝食を美味しく食べるくらいのことは軽くこなせるようになる。

なんとなく上手に盛れたバイキングの朝

というわけで最近では旅に出るたびに湯から朝食まで全てが快調に行えることを身体が覚えてそれを欲してしまったのかもしれない。五臓の声を自然に聞けるようになれば気力は回復し人生は充実するのかも。

それでも時々、店員に勧められるまま地酒を飲み漁って、目に収差の激しいオールドレンズをはめているかのように歪む外界をひとりで楽しんでいたあの頃も懐かしく思いますけど。

若かったのでしょうね。

 

coalfishsholco.hatenablog.jp