Cure of GAS

Castle Rock Photography

写真やカメラにまつわる話を淡々としていきます。

ズームレンズ(一応大三元)レビュー

前回ズームレンズの記事を書いてから運よく入手できたEF24-70mm F2.8L II USMについて実践的レビュー

もう10年以上前のもので、おまけに超有名なレンズなので今更レビューもないのだが、記憶にあるかぎり赤リングを所有するのはEF50mm F1.2以来二度目で、特にズームレンズはこれが初めてであるということを踏まえて、いわば処女レビューといきたい。

The last drop of the vermilion

先日紅葉を撮りに那須へ行ってきたのだが(落葉ばかりだったが)、このレンズは終始つけっぱなしだった。率直な感想としては、素晴らしいとしか言いようがない。

まず操作性だが、しっかりしたトルクのあるズームリングに先端がやや広がったラッパ形状であることから左手に収まり易く、安定させやすい。

これまでずっと200g程度の単焦点ばかり使ってきたので、800gを超える重さにどれだけ自分が耐えられるかわからなかったが、結論としては意外といける、という感じだった。 というのもやはりこの安定感、鏡筒の収まりがよく手に馴染むため重さをあまり感じないというのがあるだろう。

更に手ブレしそうなシチュエーションではむしろこの重さがアドバンテージになっているためか、歩留が良いと感じた。ちなみにこのモデルはISが無いが、RFモデルはIS付きである。

cottage

もちろん全く問題がなかったわけではない。撮影後半になると明らかに疲労感が出てきた。ただ、今回のように移動は車、各シチュエーションで撮影というスタイルならばまだましで、むしろ単焦点を何本も用意して付け替えるリスクや手間を考えるとズームレンズは最も適切な選択だろう。

しかし旅行の数日前に行った東京都内での撮影では、夕方になるとカフェに入るのもめんどくさくなるほどの疲労感で、その時はレンズと自分の年齢を呪(のろ)ったものだ。

肝心の描写だが、本当に素晴らしい。 やはりこれも単焦点でばかり撮ってきた者(私)の意地悪な点なのだが、どうしてもズームレンズの描写について粗探しをしてしまう。

しかしこのレンズに限ってはアラを探すのが難しいくらい優れた描写性能で、実際のところ例えばRF24mm F1.8マクロやRF35mmのレンズと同等か、ボケの美しさでいうならばこのレンズの方が好みである。

Absolutely lovely

もちろん24-70という焦点域も大変使い易い。正直テレはもう少し欲しいなと思うこともあったが、それでも大抵のものは全て、トリミング無しで撮れる。ワイドは十分である。

Mythical world

しかしこのレンズは人気のようで中古市場ではすぐに品切れ、さらに進化したRF24-70よりも品薄となっている。

valley

まあこんな便利で描写もよく、値段も手頃なら分かる気もする。

Favorite Place

というわけで、総括ではこんな素晴らしく便利なものが世の中にあったのか、という感じで、正直もう単焦点は必要ないかな、とも思えたが、それと同時に、ディラン・トマスの詩が思い浮かんだりするのである。

『Do not go gentle into that good night(穏やかな夜に身を任せるな)』

 

 

悩ましいズームレンズ

私の撮る写真のほぼ100%が単焦点で撮られたものである。

特に自慢することでも、自分の覚悟を宣言しているわけではないし、単焦点じゃないと良い写真が撮れない、などと思っているわけでもない。

ただ自分の撮影スタイルとして単焦点が性に合っていた、ということだが、そこにはやはりライカの影響が強いのは否定はしない。

思えば某有名カメラ量販店で中古のズミクロン35mmを取り寄せて受け取りに行った際、店員さんに

「状態は良いと思います!ズームリングもスムーズに動きますので...」

と言われたことがあるし、同様に中古のズミルックス50mmの場合では、M6をカバンから出した私に、

「お手持ちのカメラにレンズを装着してファインダー像を確認されますか?」

と提案されたこともある。

両方とも可愛らしい女性店員さんだったので、「よろしくお願いします!」とこちらも大人な対応をした(カメラ店の店員としてはもう少し知識が欲しいけど許す)のだが、やはり単焦点レンジファインダーはメインストリームから外れた、ひっそりとした薄暗い森の渓流に沿って進む美しい落ち葉のようなもので、諦観するしかないのかと思ったりしたものだ。

※無論M型ライカのレンズにズームは無いし、どのようなレンズをつけてもファインダー像は変わらない

話を戻そう。

このように単焦点ユーザーの私であったのだが、最近ズームレンズを使う機会があり、単焦点にはないその利便性を強く感じる出来事が多く、少し興味を持っている。

今の勤務先にはカメラが置いてあり、そのいわゆる業務用カメラは中古のEOS 6DMKIIで、レンズは中古のタムロンのSP 28-75である。

ちなみにこのセッティングを提案したのは私で(たまたま私がカメラに詳しかったから)、会社としてもなるべく安くて性能の良いカメラとレンズをという希望があったし、さらにそもそも私はカメラ担当ではなかったので、誰が撮影担当になってもいいように利便性と二次利用を重視してズームレンズそしてフルサイズを選んだわけである。

もし私がカメラ担当になっていたら、ハッセルブラッドX2D 100C とレンズはXCD 2,5/38Vあたりをシレッと計上していただろう。 もちろん通るわけはないのだが、経理から「桁間違えてないですか??」と内線があるかと思うとニヤケが止まらないのである。ようこそ沼の世界へ!

それで、最近どういうわけか私が会社でカメラ担当となることが多く、望まずとも自然とズームレンズを使うようになったのだが、最初は非常に戸惑った。

まず画角と距離感が掴みにくい。 単焦点ならば被写体に対して立ち位置を決めてから前後移動をして構図を追い込んでいくのだが、ズームは文字通りリングをねじれば画角が変わる。

これが難しい。

要するに、自分が動くのか、リングをねじるのかの判断に戸惑うのである。

明らかに撮影距離を稼げない場所で、背中が壁に接触しており、それでも被写体を広く撮りたい時などはワイド側へねじるしかないのだが、そうでない場合は、足を動かすべきか、手を動かすべきか、それが問題で、結果として撮影がワンテンポ遅れてしまう。

それでも何度か撮影を繰り返すうちにズームレンズにも慣れてきた。そして慣れると本当に便利である。

 

まず大抵のシチュエーションで困ることがないし、そもそもレンズ交換が必要ない。思えば職業的カメラマンで、特別な企画を除いて、単焦点のみを使うのは聞いたことがない。当然といえば当然か。

そしてレンズにもよると思うのだが、想像していたよりズームレンズは画質が良い。このタムロンSPもそうである。数万円のバーゲンプライスで買えるこのレンズ。これなら十分に及第点である。

まあそんな感じでズームレンズをプライベートでも使ってみたくなったのだが、プライムレンズに慣れ過ぎているとF2.8通しと言われても、たかがF2.8?となってしまう自分がいて(しかも重くて高い!)、なかなか踏み込めない世界である。

先月旅行に行った際には24mm単焦点のみ持参して大変満足したのだが、もっと望遠が欲しいと思った瞬間は何度かあった。

The things that make me happy

うーむ、ズームレンズ、悩ましい。

ちなみに、社内で撮影を終えた後、EXIFでズームレンズの焦点距離をみると28mm/35mm/50mmが多くて思わず笑ってしまった。もちろん焦点距離は撮影中に意識していない。

単焦点で身についた画角はなかなか取れそうにない。

思えば、これまで、人生も含めて単焦点ばかりだったので、そろそろズームでもいいのかな。視野も広がりそうだし。なんて。

 

 

L-sit(Lーシット)指数について(自宅トレーニング)

以前の記事にも書いたが、私は日頃から筋トレをしていて、今でもそれを継続している。

ジム通いはコロナ禍を機に止めてしまったので、大掛かりな機器は使わず、チューブや懸垂、腕立てなどの自重中心の自宅トレーニングだが、ある程度の筋力は、少なくとも自分で納得できるレベルは維持できているように思っている。

その中でも最近やり始めたL-sitが奥深く、記事にしてみた。

L-sitとは足を伸ばして座った状態から、両腕の力でお尻から足全体を浮かす動作で、体操選手が平行棒で両足をぴーんと伸ばす、例のアレである。

画像や動画がたくさんあるので、そちらも参照されたい。

本題に移るが、これは簡単そうで、全く簡単ではない。恐らく初めての方は信じられないくらい踵が浮かないことを実感するだろう。

しかし、もしやったことのない方で、このブログを読んで試してみたい、と思ったら、やる前に必ず以下を注意してほしい。

  1. いきなりやらないこと(動的ストレッチ、特に肩周りをほぐして温める)
  2. 無理に浮かそうとしないこと(腱や靭帯を痛めるかもしれない)
  3. 無理なら潔く諦めること(見栄をはらない、できないならそれでよしと武士道に則る)

以上を守らないと、(私のように)本当に怪我をすることになるので注意。特に3番は、悔しいが、己のためにも是非守ってほしい。そして何よりこれは『出来ないのが普通(普通の筋力)』ということを忘れてはならない。

Why don't you come with me?

このL-sitの面白いところは自分の今の筋力レベルが明確に分かることで、できる、できないですぐに判断できる。できれば標準以上、そうでなければ標準以下か未満、である。

一般的に筋力を測る(というか他人と比較する)場合、腕立て何回、腹筋何回、懸垂何回、のような指標が使われることが多いが、あの手の種目はフォーム(胸の高さや顎の位置)やスピード(瞬間的に連続して回数を増やすなど)によってチートが容易にできるため、例え50回できます、と言われてもそれがそのまま筋力と等価になるとはいえない。

ところがL-sitはコツやバランスの微調整はあれど、踵が浮くか浮かないかの段階ではチートは不可能である。そこにはまぐれも、ひょっとしたらも、あの時はこうだったも何もない。ひたすらの3秒間1本勝負である。

それと、この運動にはブロックのようなものが必要となる。私のおすすめは腕立てもできる木製のもので、安定性もあり大変重宝している。

今回は私的に独自の指数をつけてみた。どうでもよい指標だが、参考にしていただければ幸いである。

 

L-sit 指数1 

足が全く浮かない、浮きそうになるが、踵が離れない状態

恐らく初めてチャレンジした方の多くがこのレベルで、笑っちゃうくらい踵が浮かない。しかし筋力レベルは標準の場合も多く、コツを掴めば指数2へスムーズに移行できる可能性は十分にある。

もちろん筋力が標準未満ではコツだけではどうにもならないのはいわずもがなである。

コツ:両手の位置をなるべく腰骨下にすること。手の位置が前や後すぎると重心の問題で上がるのもの上がらない。そして浮き上げる時は全身の筋肉を緊張させて両脚をうまい棒のようにぴーんと張り詰めること。

 

L-sit 指数2

踵とお尻を浮かせることができるが、3秒〜5秒が限度

筋力レベルは恐らく標準かそれを超えているが、とり立てて見た目にマッスルというわけではない。しかし筋肉が無い痩せた身体にもみえない。またこのレベルには指数1の人でも先ほどのコツを掴めば十分に辿り着けるゾーンである。そして、50代から必要な筋力とバランス、柔軟性を考えれば指数2が概ね理想の段階となるため、ここをクリアできれば上を目指すのではなく、維持するのが良い。

 

L-sit 指数3

指数2の延長で、30秒間キープできる

筋力レベルは間違いなく標準を超えており、見た目にも、特に肩周りの三角筋は明らかな隆起が確認される。コツではどうにもならないレベルで、継続的な筋トレが必要。元々継続してトレーニングしている者が練習して到達できる段階。しかし目指すメリットはあまりない。

 

それからL-sitの出来やすさは筋力に関わらず身長や体重のバランスに関係する。そのため、筋力のない痩せた方でも体重が軽い方はすんなりできることも多い。

ちなみに私は指数2程度である。

ジムに通っていた時はベンチプレスで85kg程度持ち上げる筋力を維持していたように思えるので、まあ妥当なところかとは思うが、これを指数3まで上げようなどとは考えてもいない。

何事も程よい筋力があれば、食事も旅行も日常生活も楽しめるだろう。

今後も自宅トレーニングは継続していきたい。

 

私が動画を撮らない理由

最近、かつてに比べて国内旅行に頻繁に行くようになった。

海外旅行へのハードルがここ数年間で異常に高くなってしまったこともあるが、何よりも、ずっとそこに存在していると信じていたものが、ある日急に、時に何の前触れもなく無くなってしまうという状況を何度か経験したためである。

そして私自身の問題がある。

現状でいえば、明日あさってに死を迎えるということはないだろうが、やはり50歳近くなってくると、いつ死んでもおかしくない、ということは十分あり得ることで、ならば動けるうちに動いておき、まだ見ぬものを見ておきたい、と考えるのは自然のことなのかもしれない。

幸福度が最も高まることは何か、というテーマで研究がいくつかなされているが、上位にあるのは物質の購入ではなくて、奉仕と旅行、らしい。

カメラ好きとしては耳の痛い話ではあるが、確かに物はいくら買っても満足はしない。レンズも然り。個人差はあるにせよ、大抵はその瞬間は満足するのだが、時間が経つにつれて最初の感動が薄れてくるのは確実で、間違いないだろう。

その状態をある学者は『チョコレートを口にほおばった瞬間の幸福と変わらない』と説明していた。なるほど。

奉仕については異論はない。人のために何かしてあげることを人間は喜んで行う。そして上手くいけば互いに幸福感を得ることができる。旅先で写真を撮ってくれと頼まれることがあるが、撮る側も(よっぽど忙しい時を除いて)、撮られる側も幸せになるという良い例がある。

旅行については、これは思い出という観点から幸福度が一番高く、長続きすると考えられているようだ。別に旅行ではなくても、思い出が残れば良し、ともいえる。

これも経験上は正しい。

旅の思い出ほど長続きする幸福感はないし、もしそれをかかった費用と同価で削除してもよいかと持ちかけられても間違いなく断るだろう。倍の価格で買い取るといわれても拒否するのは疑いようのない事実のように思える。

旅と写真がセットになるとさらに幸福度は増すらしい。これはカメラ好きとしては嬉しい調査結果であるし、だからこそ旅先では必ず写真を撮る。

写真は薄れていく旅の記憶を補填してくれるし、そこで撮られた美しい写真は、何より見ているだけで特別の、自分が気づかなかった世界へ連れて行ってくれる。

Beach before dawn

 

そんな理由から動画も撮っておいた方がいいのではと、スマホやカメラで動画を撮ることもあるのだが、イマイチ上手くいかない。

まず動画は撮影そのものに時間がかかる。具体的には撮影している間の時間がなんともやるせない。

もちろん写真でもロケハンしてセッティングして、構図を決めてという流れは多くの時間を要するが、撮影自体は一瞬である。

そしてそれがいい。

一瞬を切り取る、その感覚が良い。 撮影もスマートである。長々とその場にいたりしない。あたかも通りすがりにシャッターを切るように、その場の空気を邪魔せず紳士的に始めて、それから終わる。

さらに私の場合、フィルムのイメージがあるせいか、同じ場所の写真を何枚も撮ることはしない。多くても3枚程度である。よって2泊程度の旅でも100枚にも満たないことがあるが、処理の手間を考えるとこれで十分だと考えている。

ところが動画は、これは実際にやってみると向き不向きがはっきりするだろうが、私は向いていない。

前述の、モニターを見ながら撮っている時間の何ともいえない気まずさ、どれだけの時間撮ればいいのかの判断が曖昧なこと、手ぶれやチルトの問題、撮影が終わってからのその処理の膨大さ。

わずか数分の動画でさえ処理にはそれなりに時間がかかる。動画内のおびただしい映像のうち、何を残して、何を削除するか、トリミング後、元の動画は残すか、捨てるか、余計な音声が入っていないか、などなど。

そして、動画は何より生々しい。

やはり個人差はあるにせよ、人はその思い出を必ずしも生々しくあるがままに残しておきたいわけではないのではないか。

そこには必ず幸福度が高まるようにバイアスをかけているのではないか。だからこそ旅先で嫌なことがあっても、良い思い出として残せるのではないか。

そしてそれを可能にするのはやはりスチル(写真)なのではないだろうか。

あくまで私の個人的な意見だが、動画には想像力を沸かせる要素が、スチルに比べ少ないように感じる。

何気ない街並みの1枚のショットに意識が集中され感情が拡大されうることはあっても、例えばGoproで撮られたストリートウォーキング動画に心を打たれたことはかつて一度もない。

ちなみに映画は写真の連続であるため、通常の動画とは異なる立ち位置にあると思われるのでここでは同列には扱わない。

Off - season, quiet

ようやく秋めいた季節がやってきて、朝晩は心地よい風が吹いている。

もちろん、ゆり椅子にもたれながらどこにも出かけず自宅で読書する日々も私にとっては大切な思い出である。

 

 

変わりゆく旅行の形

ウグイスの鳴き声を聞くのは何年ぶりだろう。

日本の三大避暑地に数えられるこの地では、縦笛を吸うように僅かに音程が変わる旋律の闖入にすら相好が崩れる。

駅から車を1時間ほど走らせた山奥の、河川がちょうど分岐するのが見渡せる高台にあるこの宿は、かつてある大企業の保養所として使われていたもので、築30年を超える佇まいはほのかに芳る檜の柱に支えられて朧げながらも、発展期から成熟期へと向かう日本の姿をそのまま映し出しているような、そんな時代へ遡った気分と美味しい川魚の和食が大変お気に入りでもう10年以上も毎年通っていたのだが、残念ながら外出規制の続く時期に廃業してしまった。

ところがその後すぐに、新しいオーナーカンパニーが建物を買い取り新たなホテルとして蘇らせた。その佇まいとコンセプトは完全に刷新されており以前とは別物になっていることを半分わかっていながらも、この三年間、この国で起こったこと、世界で起こったこと、やや逡巡しながらも、衰退という言葉が頭から離れず、それを払拭するかのように無理やり鞄に荷物を詰め込んで想い出の彼の地、久遠のユートピアを目指してひたすら車を走らせた。

実際に到着してみると外観は以前の宿そのものだった。なぜかほっとして館内に足を踏み入れたのだが、そこは18%グレートーンで塗り固められたブティックを思わせるような洒落た造りで、ところどころに取り付けられたセンサーや、古びた扉にはまるでそぐわないオートロックシステム、廊下に置かれたイタリア製のディフューザーは装飾ひとつなかった数寄屋造りの内装と檜の柔らかい香りを完全に過去のものとしていた。

衰退

一言居士の性格ではないが、立ち込める甘い香りとキャンプ場を思わせる直接的な夕食、ファッションホテルのような果てしなくクールで非接触な接客を目の前にして、本当にこうする必要があったのだろうか、もっと他にいい方法はなかったのだろうか、源泉から汲み上げた水を利用するのではなく、源泉そのものを変えてしまったこのホテルにとって、過去に拘泥する私はさぞ厄介者だろう。

思い出は思い出として残しておいた方が良い、何度この言葉が頭に浮かんだことだろう。そしてこれまでも、これからも。

翌朝。寝苦しいベッドで何度も目が覚めたおかげでスッキリしない。 簡単な朝食を食べた後で、そそくさと荷物を整理する。

受付には誰もおらず、決済は全てWeb上で済ましているので、鍵を置いてただ帰ればいい。

玄関を出ようとしたところで、 「〇〇さんですよね?」 とホテルのスタッフに声をかけられた。

なんとなく見覚えのある顔だった。

「私以前もここで働いていたんです」

ようやく思い出し、「ああ、どうも」と声をかけた。

彼はなぜかすまなそうに現在のホテルについて説明をしてきた。会社が変わってしまい以前のようなホスピタリティを維持できなくなったこと、圧倒的な人員不足でなおさら接客に手が回らず、最近の時流に合わせて非接触をコンセプトに運営されている、と。

「前宿からの常連さんも来られますが、やはり....馴染めない方もたくさんいらっしゃいますね」

私もかつては常連のひとりだった。

宿に到着した際に笑顔で迎えてくれるスタッフ達、重そうな荷物をさりげなく手にとる気遣い、繊細に作られた料理とその説明、チェックアウト時の何気ない会話、そんな瞬間がたまらなく好きだった。

私は団塊ジュニアの世代で、全てにおいて人のふれあいを求めているわけではない。それどころか常日頃は逆である。しかしだからこそ、特別な場所や瞬間を大切にとっておきたいという気持ちが強い。

その全てが失われた今、再び常連となることは難しいのかもしれない。

 「旅館業はとにかく人手が足りず、少ない人員で回していくにはもはやこのような方法に切り替えていくしかないんです」

おそらく随分長い間接客業に身を沈めてきたであろう中年男性を目の前にして全てがオートメーション化されたホテルをイメージしてみた。窓の外では何も知らないウグイスだけが音程を巧みに変えた美しい旋律で求愛行動を続けていた。

彼の誠実さに十分すぎるホスピタリティを感じながら荷物をトランクに入れエンジンをかけた。ふと入り口を見ると彼の姿はもうどこかに消えていた。

そうか、終わったんだ。出会いと別れ。またひとつ居場所が無くなってしまったのだが、不思議と気持ちは楽になっていた。

クーラーボックス内の僅かな氷で冷やされた土産の地ビールがこの暑さでダメにならないことを祈りながら永遠に続く耕作地を抜け家路へと急いだ。 

 

 

やはり苦手な50mm

50mmが苦手である。

苦手なので使わない。使わないので上手くならないし魅力を感じない。実際数でいえば、35mmに比べ3分の1程度しか写真は残っていない。

Tokyo skyscraper

それでも写真を始めた頃は50mmを積極的に使ってきた。

50mmは標準の画角として頂点に君臨しているし、広すぎず狭すぎず、まあいわゆる見たままが撮れる画角ということで、特に初心者のうちはとりあえず50mmで撮っておけば間違いないという、いわば登竜門というか試金石という立ち位置に安座していた。

物理的な制約もあった。ライカM3はご承知の通り最も広いフレームが50mmで、35mmや28mmはそもそも想定していない。 制約を受けるとそれを破りたくなるのが人間の性(さが)である、とまで大袈裟な話ではないが、あるフォトグラファーの写真が35mmで撮られたことを知ってすぐに切り替えた。

50mmから35mmへ変えた途端に広がる世界になんと感動したものか。撮れなかったものが撮れる、いわば見えなかったものが見えるようになり、満足度も高くなった。

先日、いわゆる撒き餌レンズなるものを入手した。あれほど苦手な50mmだが、自分の年齢が近くなってきた(信じているわけではないが年齢と焦点距離の関係は興味深いものである)こともあり、特に感動することもなくしばらく使用してみた。

しかしやはり50mm、使いづらい。 撮った画像をみても、普通、である。 以前も書いたのだが、この普通の中に何か特別な意味を探そうとしている自分がいて、そういう意味では特別な存在なのは間違いない。クラスで下から3番目がアイドルになる時代、審美眼を向上させねば。

50mmの利点は大口径が比較的小さく、そして安価に作れることで、浅い被写界深度を活かしてぼけを楽しむ方法もあるが、正直それならば標準の85mmか135mmの方が割り切りが良い。

旅に出るのにも、今の私には広角1本あれば十分だし、どうしてもという時は85mm程度を持参する。よってまた出番がなくなる50mm。

結局しばらくして50mmレンズは手放した。安価で入手、安価で売却。別にどおってことない。

人にはそれぞれに向いている焦点距離があり、それを見つけた人は良い写真が撮れるのだろう。

But beautiful, Tokyo Japan

ズミクロン、ズミルックス、ノクトン、プラナー、これだけ50mmの良いレンズを使ってきて、今手元に一つも残っていないのだから私は50mmから見放された、流浪者なのかも。

Leitz Minolta CL

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ミラーレスで蘇るカールツァイス | Carl Zeiss

写真を撮るのが楽しくない。

撮った写真を見るのは好きだ。しかし写真を撮る行為そのものは楽しくも何ともない。

フィルムカメラで撮っていた時は終始楽しかった。一枚一枚が光と影、または3原色のきらびやかで物憂いコンポジション、束の間の美という儚い瞬間を36×24mmの小さな枠へ懸命に包み込んでいるような緊張感とある種の達成感があった。

現在、レンズと合わせて500gにも満たないミラーレスを片手に、ほとんど作業的にシャッターを連続して切る行為にやはり虚しさを感じざるを得ない。

ふと思い立って一眼レフ時代のレンズを物色した。

思い出のZeiss群。Distagon、Planar、この分厚い鏡筒と剛性、冷たい金属の感触と被写体をミクロン単位でネイルするフォーカスリングの精度、どれもが強烈な記憶として一瞬にして蘇ってくる。

UNTITLED

そうか、これだったのか。

梶井基次郎がたった一つの檸檬によって心が彩られたように、私にとってマニュアルフォーカスで撮影するという行為がこれほど心を跳りあがらせるとは。

ミラーレスといえどマウントアダプターで大口径重量級レンズを装着した途端、Weber比の分子は分母を超えて果てしなく大きくなり、目覚めた筋細胞はそれを支えようと慌てて腕橈骨筋を膨れ上がらせる。

この重量感がなぜだか心地よい。プラスチックで軽量、写りも秀逸な最新レンズを装着しているときには感じられない、精神と肉体と実物体との融合。

Distagon 35/1.4とRF35/1.8

ミラーレスで蘇るZeiss

今回あらためてZeissレンズを使用した感想として、レフ機時代よりはるかにその潜在能力をミラーレスによって引き出されている感じを受ける。

レフ機はレフ板が仕込まれているため、ファインダー越しにみている被写体と、センサーに投影されるものは、ほんの僅かだがズレができるらしい。

それがミラーレスになると何の障壁もなくダイレクトにセンサーへ届くため、文字通り見たままの世界が映る。

逆にいえばレンズの透過性能を誤魔化す要素は何もない。そんなシビアな世界でZeissは果てしなくトップクラスを走っている。 特にアンダーで撮影する時の光と影のコントラストは、Zeissならではと、様々な最新レンズを触ってきた経験上はっきりとわかる。

UNTITLED

上品で甘く、主張しすぎないが、確かにそこに存在する何か。

そして極め付けはZeiss Blue。 海や空といえば何でも真っ青にしてしまう最近のスマホやAIリタッチを物ともせず、その独自の世界観であるグレイッシュブルーをただひたすら、何世紀か先、いつか人類が違う惑星へ降り立つことができたならばおそらくそこで見える景色は月が3つあり、空の色はこんな感じなのだろうかなど何かの映画で観たようなシーンをリコールさせる。

UNTITLED

今はもう時代遅れとなったレフ機専用でバーゲンプライスのレンズ群がこのような形で蘇るとは思ってもみなかった。

何気ない日常の風景を意味のあるもに変えるMFのZeiss

UNTITLED

I appreciate it!