写真を撮るのが楽しくない。
撮った写真を見るのは好きだ。しかし写真を撮る行為そのものは楽しくも何ともない。
フィルムカメラで撮っていた時は終始楽しかった。一枚一枚が光と影、または3原色のきらびやかで物憂いコンポジション、束の間の美という儚い瞬間を36×24mmの小さな枠へ懸命に包み込んでいるような緊張感とある種の達成感があった。
現在、レンズと合わせて500gにも満たないミラーレスを片手に、ほとんど作業的にシャッターを連続して切る行為にやはり虚しさを感じざるを得ない。
ふと思い立って一眼レフ時代のレンズを物色した。
思い出のZeiss群。Distagon、Planar、この分厚い鏡筒と剛性、冷たい金属の感触と被写体をミクロン単位でネイルするフォーカスリングの精度、どれもが強烈な記憶として一瞬にして蘇ってくる。
そうか、これだったのか。
梶井基次郎がたった一つの檸檬によって心が彩られたように、私にとってマニュアルフォーカスで撮影するという行為がこれほど心を跳りあがらせるとは。
ミラーレスといえどマウントアダプターで大口径重量級レンズを装着した途端、Weber比の分子は分母を超えて果てしなく大きくなり、目覚めた筋細胞はそれを支えようと慌てて腕橈骨筋を膨れ上がらせる。
この重量感がなぜだか心地よい。プラスチックで軽量、写りも秀逸な最新レンズを装着しているときには感じられない、精神と肉体と実物体との融合。
ミラーレスで蘇るZeiss
今回あらためてZeissレンズを使用した感想として、レフ機時代よりはるかにその潜在能力をミラーレスによって引き出されている感じを受ける。
レフ機はレフ板が仕込まれているため、ファインダー越しにみている被写体と、センサーに投影されるものは、ほんの僅かだがズレができるらしい。
それがミラーレスになると何の障壁もなくダイレクトにセンサーへ届くため、文字通り見たままの世界が映る。
逆にいえばレンズの透過性能を誤魔化す要素は何もない。そんなシビアな世界でZeissは果てしなくトップクラスを走っている。 特にアンダーで撮影する時の光と影のコントラストは、Zeissならではと、様々な最新レンズを触ってきた経験上はっきりとわかる。
上品で甘く、主張しすぎないが、確かにそこに存在する何か。
そして極め付けはZeiss Blue。 海や空といえば何でも真っ青にしてしまう最近のスマホやAIリタッチを物ともせず、その独自の世界観であるグレイッシュブルーをただひたすら、何世紀か先、いつか人類が違う惑星へ降り立つことができたならばおそらくそこで見える景色は月が3つあり、空の色はこんな感じなのだろうかなど何かの映画で観たようなシーンをリコールさせる。
今はもう時代遅れとなったレフ機専用でバーゲンプライスのレンズ群がこのような形で蘇るとは思ってもみなかった。
何気ない日常の風景を意味のあるもに変えるMFのZeiss。
I appreciate it!