最近、かつてに比べて国内旅行に頻繁に行くようになった。
海外旅行へのハードルがここ数年間で異常に高くなってしまったこともあるが、何よりも、ずっとそこに存在していると信じていたものが、ある日急に、時に何の前触れもなく無くなってしまうという状況を何度か経験したためである。
そして私自身の問題がある。
現状でいえば、明日あさってに死を迎えるということはないだろうが、やはり50歳近くなってくると、いつ死んでもおかしくない、ということは十分あり得ることで、ならば動けるうちに動いておき、まだ見ぬものを見ておきたい、と考えるのは自然のことなのかもしれない。
幸福度が最も高まることは何か、というテーマで研究がいくつかなされているが、上位にあるのは物質の購入ではなくて、奉仕と旅行、らしい。
カメラ好きとしては耳の痛い話ではあるが、確かに物はいくら買っても満足はしない。レンズも然り。個人差はあるにせよ、大抵はその瞬間は満足するのだが、時間が経つにつれて最初の感動が薄れてくるのは確実で、間違いないだろう。
その状態をある学者は『チョコレートを口にほおばった瞬間の幸福と変わらない』と説明していた。なるほど。
奉仕については異論はない。人のために何かしてあげることを人間は喜んで行う。そして上手くいけば互いに幸福感を得ることができる。旅先で写真を撮ってくれと頼まれることがあるが、撮る側も(よっぽど忙しい時を除いて)、撮られる側も幸せになるという良い例がある。
旅行については、これは思い出という観点から幸福度が一番高く、長続きすると考えられているようだ。別に旅行ではなくても、思い出が残れば良し、ともいえる。
これも経験上は正しい。
旅の思い出ほど長続きする幸福感はないし、もしそれをかかった費用と同価で削除してもよいかと持ちかけられても間違いなく断るだろう。倍の価格で買い取るといわれても拒否するのは疑いようのない事実のように思える。
旅と写真がセットになるとさらに幸福度は増すらしい。これはカメラ好きとしては嬉しい調査結果であるし、だからこそ旅先では必ず写真を撮る。
写真は薄れていく旅の記憶を補填してくれるし、そこで撮られた美しい写真は、何より見ているだけで特別の、自分が気づかなかった世界へ連れて行ってくれる。
そんな理由から動画も撮っておいた方がいいのではと、スマホやカメラで動画を撮ることもあるのだが、イマイチ上手くいかない。
まず動画は撮影そのものに時間がかかる。具体的には撮影している間の時間がなんともやるせない。
もちろん写真でもロケハンしてセッティングして、構図を決めてという流れは多くの時間を要するが、撮影自体は一瞬である。
そしてそれがいい。
一瞬を切り取る、その感覚が良い。 撮影もスマートである。長々とその場にいたりしない。あたかも通りすがりにシャッターを切るように、その場の空気を邪魔せず紳士的に始めて、それから終わる。
さらに私の場合、フィルムのイメージがあるせいか、同じ場所の写真を何枚も撮ることはしない。多くても3枚程度である。よって2泊程度の旅でも100枚にも満たないことがあるが、処理の手間を考えるとこれで十分だと考えている。
ところが動画は、これは実際にやってみると向き不向きがはっきりするだろうが、私は向いていない。
前述の、モニターを見ながら撮っている時間の何ともいえない気まずさ、どれだけの時間撮ればいいのかの判断が曖昧なこと、手ぶれやチルトの問題、撮影が終わってからのその処理の膨大さ。
わずか数分の動画でさえ処理にはそれなりに時間がかかる。動画内のおびただしい映像のうち、何を残して、何を削除するか、トリミング後、元の動画は残すか、捨てるか、余計な音声が入っていないか、などなど。
そして、動画は何より生々しい。
やはり個人差はあるにせよ、人はその思い出を必ずしも生々しくあるがままに残しておきたいわけではないのではないか。
そこには必ず幸福度が高まるようにバイアスをかけているのではないか。だからこそ旅先で嫌なことがあっても、良い思い出として残せるのではないか。
そしてそれを可能にするのはやはりスチル(写真)なのではないだろうか。
あくまで私の個人的な意見だが、動画には想像力を沸かせる要素が、スチルに比べ少ないように感じる。
何気ない街並みの1枚のショットに意識が集中され感情が拡大されうることはあっても、例えばGoproで撮られたストリートウォーキング動画に心を打たれたことはかつて一度もない。
ちなみに映画は写真の連続であるため、通常の動画とは異なる立ち位置にあると思われるのでここでは同列には扱わない。
ようやく秋めいた季節がやってきて、朝晩は心地よい風が吹いている。
もちろん、ゆり椅子にもたれながらどこにも出かけず自宅で読書する日々も私にとっては大切な思い出である。