Cure of GAS

Castle Rock Photography

日々について淡々と書きとめてます。

買ってよかった2023年:挨拶がてら企画に乗ってみた

たまには乗ってみるか、といいつつも内心、あわよくばギフトカードが手に入るかもという期待を込めて記す。抽選じゃないので通るわけがないけど。

 

キッチン関係

以前使っていたイタリア製のピッチャーの内底がカビやすくなってきたので(おまけに食洗機非対応で洗いにくい)、買い換えた。ダブルウォールカラフェ。

選んだ基準はサイズと食洗機対応であるかどうかということ。特にサイズは重要で、リッタークラスになると大きくなり過ぎてそもそも食洗機に入らない。そして扱いづらい。食卓に1キロの飲料を置く気にはなれないし、片手だと手首を痛めそう。

これはとにかくコンパクトで容量もちょうどいい。デザインも素晴らしく、何を入れても様になる。結果大成功で幸せになれる一品。

 

デスク周り

年に数回ほど配置換えをする私の書斎。光の向きが変わると気分も変わる。しかしそんな時に気になる、というよりも制約を受けるのがいわゆる社長デスク的な使い方。

扉や部屋の中央へ向けてデスクを置くと、背面のケーブル類が悪目立ちしてしまう。そして猫様がここぞとばかりに狩にやってくる。

ワイヤーケーブルトレーはそれらを全て、瞬時に解決してくれた優れもの。ケーブルレスの世界がこんなに美しいとは。大のお気に入り。

 

美術関係

生涯に渡り質素で目立たない生活を続けたエドワード・ホッパーのイラスト集。光の捉え方が大変うまく、写真を撮る時の参考になった。イラストも古き時代のアメリカを反映していて、アメカジ好きな私には飾っておくだけで満足。

 

カメラ関係

私のブログでも紹介して、Flickrでも最近はほとんどこれ1本で撮影している。重さといい、サイズといい、描写といい、全てがパーフェクト。最近しれっと中古価格が上がってきているので要チェック。

You made my day flic.kr

最後はお馴染みのホルガ。

私にとっては最後の中判カメラといえるかもしれない。まだ半分以上フィルムが残っているので(撮影ずみの半分に何が写っているか覚えていないほど)、今年一年かけてなんとか消化したい。

 

今年もよろしくお願いします。

 

カメラと風景の旅

今年もあと数日となった。

特に感傷に浸りたかったというわけでもないが、カメラとレンズをザックにつめて中部地方の風吹く砂浜を歩いた。

You made my day

日の入りまで一時間弱といった感じで、風は強く冷たく黄昏時の闇を否応なく引き寄せていた。ジッパーを襟元まで上げたシームシールド加工されたミディアムウェイトコートの表面を砂風は諦めたように通り過ぎていく。 砂漠のような荒地には錆びた色の貝殻や丸く削られた石、そして何世紀も前からあるような乾いた大木がベンチのように置かれていた。 そのうちひとつに腰を下ろし、ひたすらに海を眺めた。

You made my day

波は畔編みのニットのように広がり、縮まり、砂浜を濃い黄土色に染めていく。 こんな詩歌のような波が私の心にも押し寄せて、全てを洗いざらい無くしてもらえればどんなにスッキリするだろう。それに応えるかのようにすっぽりと被ったフードからは、貝殻を耳に当てたようなくぐもったサウンドが鳴り響いていた。

You made my day

太陽の下縁が海と溶け合い始めた瞬間から白い季節は朱色に染まり、砂浜はサルファイエロー(硫黄色)に反射する。

You made my day

そして薄明が訪れる。脇役だった雲は地平線に沿って赤銅色に塗られていく。

You made my day

ふと後ろを見ると紫炎のグラデーションがかった空には月があった。なんの特徴もない小さな月だったが、この時はなぜか砂漠を旅する者達が願いを込めて祈り続けてきたオベリスクのように神聖なシンボルのように感じた。
レンズの冷たい鏡筒が、この世で最も自由な行いをしなさいと私に囁(ささや)いてきた。

全てのことを忘れても許されるコンマミリ秒の特別な時間が今ここにある。すっかり冷え切ったレザーグローブを外し右手でグリップを掴みファインダーを覗く。寒さでリチウム電池の減りは異常に早く、モニターのインフォメーションはまるでフィルムの最後のロールを表すかのようにレッドアラートが表示されている。

この瞬間だけは自由になれる、いつもそんな気がしていた。

24mmか35mm、いや、50mmか。絞りは、f5.6、私にとって最も贅沢で最も寛容なF値。 砂地をティンバーランドのデザートブーツで再び踏み固め、全ての電力を後幕シャッターへと注ぐ。 乾いたシャッター音は砂風と共に上空に消え去り、光の雫はレンズの光軸に沿って私の目に届く。

Desert Moon

ひとつの時間を切り取った代償にかじかんだ手をポケットに入れながら北の方角へ、そして現実世界へと歩き始める。

背後では波の音が青い闇にそっと語りかけるように、希望の讃美歌のように美しく鳴り響いていた。

You made my day

今年もお世話になりました。良いお年をお過ごしください。<2023年師走 書斎にて>

 

 

 

 

家生活の想い出

コロナ禍に撮ったフィルム写真が見つかった。

それほど古くはないが、記憶の中ではもうずいぶん昔の写真のように感じる。

フィルムはポートラ400、645サイズ。

家から出ない生活が長引く中で少しでも芸術的?なシーンを撮ろうとたどり着いたのが部屋そのものの写真。とはいえ、うちは高級住宅でもないし、ごく普通の民家。 その中でも台所は住人のセンスが最も現れるところなのでは(ほぼ嫁さんの趣味だが)、と勝手に解釈して撮り始めた。 台所の中でも特にコンロ周りは生活臭に溢れていて楽しい。 毎日使う鍋やフライパン、ポットやコーヒーカップなどなど。色もカラフルだ。無駄なものは何一つない、能のように研ぎ澄まされた美の世界。

The Kitchen

高解像度のデジタルで撮るのはプレス用としては最高に重要だけれど、フィルムで撮るとどことなく世界が絵画デッサン用のモチーフになるから不思議だ。

褪せた色とクリームのようにどこまでも伸びるハイライトトーン。ヴィンテージコットンのように優しくて着慣れたテクスチャ。 フィルムで撮ることはほぼ無くなってしまったけど、なんとかしてこの質感を表現したいと、憶い続けている。

 

 

ズームレンズ(一応大三元)レビュー

前回ズームレンズの記事を書いてから運よく入手できたEF24-70mm F2.8L II USMについて実践的レビュー

もう10年以上前のもので、おまけに超有名なレンズなので今更レビューもないのだが、記憶にあるかぎり赤リングを所有するのはEF50mm F1.2以来二度目で、特にズームレンズはこれが初めてであるということを踏まえて、いわば処女レビューといきたい。

The last drop of the vermilion

先日紅葉を撮りに那須へ行ってきたのだが(落葉ばかりだったが)、このレンズは終始つけっぱなしだった。率直な感想としては、素晴らしいとしか言いようがない。

まず操作性だが、しっかりしたトルクのあるズームリングに先端がやや広がったラッパ形状であることから左手に収まり易く、安定させやすい。

これまでずっと200g程度の単焦点ばかり使ってきたので、800gを超える重さにどれだけ自分が耐えられるかわからなかったが、結論としては意外といける、という感じだった。 というのもやはりこの安定感、鏡筒の収まりがよく手に馴染むため重さをあまり感じないというのがあるだろう。

更に手ブレしそうなシチュエーションではむしろこの重さがアドバンテージになっているためか、歩留が良いと感じた。ちなみにこのモデルはISが無いが、RFモデルはIS付きである。

cottage

もちろん全く問題がなかったわけではない。撮影後半になると明らかに疲労感が出てきた。ただ、今回のように移動は車、各シチュエーションで撮影というスタイルならばまだましで、むしろ単焦点を何本も用意して付け替えるリスクや手間を考えるとズームレンズは最も適切な選択だろう。

しかし旅行の数日前に行った東京都内での撮影では、夕方になるとカフェに入るのもめんどくさくなるほどの疲労感で、その時はレンズと自分の年齢を呪(のろ)ったものだ。

肝心の描写だが、本当に素晴らしい。 やはりこれも単焦点でばかり撮ってきた者(私)の意地悪な点なのだが、どうしてもズームレンズの描写について粗探しをしてしまう。

しかしこのレンズに限ってはアラを探すのが難しいくらい優れた描写性能で、実際のところ例えばRF24mm F1.8マクロやRF35mmのレンズと同等か、ボケの美しさでいうならばこのレンズの方が好みである。

Absolutely lovely

もちろん24-70という焦点域も大変使い易い。正直テレはもう少し欲しいなと思うこともあったが、それでも大抵のものは全て、トリミング無しで撮れる。ワイドは十分である。

Mythical world

しかしこのレンズは人気のようで中古市場ではすぐに品切れ、さらに進化したRF24-70よりも品薄となっている。

valley

まあこんな便利で描写もよく、値段も手頃なら分かる気もする。

Favorite Place

というわけで、総括ではこんな素晴らしく便利なものが世の中にあったのか、という感じで、正直もう単焦点は必要ないかな、とも思えたが、それと同時に、ディラン・トマスの詩が思い浮かんだりするのである。

『Do not go gentle into that good night(穏やかな夜に身を任せるな)』

 

 

悩ましいズームレンズ

私の撮る写真のほぼ100%が単焦点で撮られたものである。

特に自慢することでも、自分の覚悟を宣言しているわけではないし、単焦点じゃないと良い写真が撮れない、などと思っているわけでもない。

ただ自分の撮影スタイルとして単焦点が性に合っていた、ということだが、そこにはやはりライカの影響が強いのは否定はしない。

思えば某有名カメラ量販店で中古のズミクロン35mmを取り寄せて受け取りに行った際、店員さんに

「状態は良いと思います!ズームリングもスムーズに動きますので...」

と言われたことがあるし、同様に中古のズミルックス50mmの場合では、M6をカバンから出した私に、

「お手持ちのカメラにレンズを装着してファインダー像を確認されますか?」

と提案されたこともある。

両方とも可愛らしい女性店員さんだったので、「よろしくお願いします!」とこちらも大人な対応をした(カメラ店の店員としてはもう少し知識が欲しいけど許す)のだが、やはり単焦点レンジファインダーはメインストリームから外れた、ひっそりとした薄暗い森の渓流に沿って進む美しい落ち葉のようなもので、諦観するしかないのかと思ったりしたものだ。

※無論M型ライカのレンズにズームは無いし、どのようなレンズをつけてもファインダー像は変わらない

話を戻そう。

このように単焦点ユーザーの私であったのだが、最近ズームレンズを使う機会があり、単焦点にはないその利便性を強く感じる出来事が多く、少し興味を持っている。

今の勤務先にはカメラが置いてあり、そのいわゆる業務用カメラは中古のEOS 6DMKIIで、レンズは中古のタムロンのSP 28-75である。

ちなみにこのセッティングを提案したのは私で(たまたま私がカメラに詳しかったから)、会社としてもなるべく安くて性能の良いカメラとレンズをという希望があったし、さらにそもそも私はカメラ担当ではなかったので、誰が撮影担当になってもいいように利便性と二次利用を重視してズームレンズそしてフルサイズを選んだわけである。

もし私がカメラ担当になっていたら、ハッセルブラッドX2D 100C とレンズはXCD 2,5/38Vあたりをシレッと計上していただろう。 もちろん通るわけはないのだが、経理から「桁間違えてないですか??」と内線があるかと思うとニヤケが止まらないのである。ようこそ沼の世界へ!

それで、最近どういうわけか私が会社でカメラ担当となることが多く、望まずとも自然とズームレンズを使うようになったのだが、最初は非常に戸惑った。

まず画角と距離感が掴みにくい。 単焦点ならば被写体に対して立ち位置を決めてから前後移動をして構図を追い込んでいくのだが、ズームは文字通りリングをねじれば画角が変わる。

これが難しい。

要するに、自分が動くのか、リングをねじるのかの判断に戸惑うのである。

明らかに撮影距離を稼げない場所で、背中が壁に接触しており、それでも被写体を広く撮りたい時などはワイド側へねじるしかないのだが、そうでない場合は、足を動かすべきか、手を動かすべきか、それが問題で、結果として撮影がワンテンポ遅れてしまう。

それでも何度か撮影を繰り返すうちにズームレンズにも慣れてきた。そして慣れると本当に便利である。

 

まず大抵のシチュエーションで困ることがないし、そもそもレンズ交換が必要ない。思えば職業的カメラマンで、特別な企画を除いて、単焦点のみを使うのは聞いたことがない。当然といえば当然か。

そしてレンズにもよると思うのだが、想像していたよりズームレンズは画質が良い。このタムロンSPもそうである。数万円のバーゲンプライスで買えるこのレンズ。これなら十分に及第点である。

まあそんな感じでズームレンズをプライベートでも使ってみたくなったのだが、プライムレンズに慣れ過ぎているとF2.8通しと言われても、たかがF2.8?となってしまう自分がいて(しかも重くて高い!)、なかなか踏み込めない世界である。

先月旅行に行った際には24mm単焦点のみ持参して大変満足したのだが、もっと望遠が欲しいと思った瞬間は何度かあった。

The things that make me happy

うーむ、ズームレンズ、悩ましい。

ちなみに、社内で撮影を終えた後、EXIFでズームレンズの焦点距離をみると28mm/35mm/50mmが多くて思わず笑ってしまった。もちろん焦点距離は撮影中に意識していない。

単焦点で身についた画角はなかなか取れそうにない。

思えば、これまで、人生も含めて単焦点ばかりだったので、そろそろズームでもいいのかな。視野も広がりそうだし。なんて。

 

 

L-sit(Lーシット)指数について(自宅トレーニング)

以前の記事にも書いたが、私は日頃から筋トレをしていて、今でもそれを継続している。

ジム通いはコロナ禍を機に止めてしまったので、大掛かりな機器は使わず、チューブや懸垂、腕立てなどの自重中心の自宅トレーニングだが、ある程度の筋力は、少なくとも自分で納得できるレベルは維持できているように思っている。

その中でも最近やり始めたL-sitが奥深く、記事にしてみた。

L-sitとは足を伸ばして座った状態から、両腕の力でお尻から足全体を浮かす動作で、体操選手が平行棒で両足をぴーんと伸ばす、例のアレである。

画像や動画がたくさんあるので、そちらも参照されたい。

本題に移るが、これは簡単そうで、全く簡単ではない。恐らく初めての方は信じられないくらい踵が浮かないことを実感するだろう。

しかし、もしやったことのない方で、このブログを読んで試してみたい、と思ったら、やる前に必ず以下を注意してほしい。

  1. いきなりやらないこと(動的ストレッチ、特に肩周りをほぐして温める)
  2. 無理に浮かそうとしないこと(腱や靭帯を痛めるかもしれない)
  3. 無理なら潔く諦めること(見栄をはらない、できないならそれでよしと武士道に則る)

以上を守らないと、(私のように)本当に怪我をすることになるので注意。特に3番は、悔しいが、己のためにも是非守ってほしい。そして何よりこれは『出来ないのが普通(普通の筋力)』ということを忘れてはならない。

Why don't you come with me?

このL-sitの面白いところは自分の今の筋力レベルが明確に分かることで、できる、できないですぐに判断できる。できれば標準以上、そうでなければ標準以下か未満、である。

一般的に筋力を測る(というか他人と比較する)場合、腕立て何回、腹筋何回、懸垂何回、のような指標が使われることが多いが、あの手の種目はフォーム(胸の高さや顎の位置)やスピード(瞬間的に連続して回数を増やすなど)によってチートが容易にできるため、例え50回できます、と言われてもそれがそのまま筋力と等価になるとはいえない。

ところがL-sitはコツやバランスの微調整はあれど、踵が浮くか浮かないかの段階ではチートは不可能である。そこにはまぐれも、ひょっとしたらも、あの時はこうだったも何もない。ひたすらの3秒間1本勝負である。

それと、この運動にはブロックのようなものが必要となる。私のおすすめは腕立てもできる木製のもので、安定性もあり大変重宝している。

今回は私的に独自の指数をつけてみた。どうでもよい指標だが、参考にしていただければ幸いである。

 

L-sit 指数1 

足が全く浮かない、浮きそうになるが、踵が離れない状態

恐らく初めてチャレンジした方の多くがこのレベルで、笑っちゃうくらい踵が浮かない。しかし筋力レベルは標準の場合も多く、コツを掴めば指数2へスムーズに移行できる可能性は十分にある。

もちろん筋力が標準未満ではコツだけではどうにもならないのはいわずもがなである。

コツ:両手の位置をなるべく腰骨下にすること。手の位置が前や後すぎると重心の問題で上がるのもの上がらない。そして浮き上げる時は全身の筋肉を緊張させて両脚をうまい棒のようにぴーんと張り詰めること。

 

L-sit 指数2

踵とお尻を浮かせることができるが、3秒〜5秒が限度

筋力レベルは恐らく標準かそれを超えているが、とり立てて見た目にマッスルというわけではない。しかし筋肉が無い痩せた身体にもみえない。またこのレベルには指数1の人でも先ほどのコツを掴めば十分に辿り着けるゾーンである。そして、50代から必要な筋力とバランス、柔軟性を考えれば指数2が概ね理想の段階となるため、ここをクリアできれば上を目指すのではなく、維持するのが良い。

 

L-sit 指数3

指数2の延長で、30秒間キープできる

筋力レベルは間違いなく標準を超えており、見た目にも、特に肩周りの三角筋は明らかな隆起が確認される。コツではどうにもならないレベルで、継続的な筋トレが必要。元々継続してトレーニングしている者が練習して到達できる段階。しかし目指すメリットはあまりない。

 

それからL-sitの出来やすさは筋力に関わらず身長や体重のバランスに関係する。そのため、筋力のない痩せた方でも体重が軽い方はすんなりできることも多い。

ちなみに私は指数2程度である。

ジムに通っていた時はベンチプレスで85kg程度持ち上げる筋力を維持していたように思えるので、まあ妥当なところかとは思うが、これを指数3まで上げようなどとは考えてもいない。

何事も程よい筋力があれば、食事も旅行も日常生活も楽しめるだろう。

今後も自宅トレーニングは継続していきたい。

 

私が動画を撮らない理由

最近、かつてに比べて国内旅行に頻繁に行くようになった。

海外旅行へのハードルがここ数年間で異常に高くなってしまったこともあるが、何よりも、ずっとそこに存在していると信じていたものが、ある日急に、時に何の前触れもなく無くなってしまうという状況を何度か経験したためである。

そして私自身の問題がある。

現状でいえば、明日あさってに死を迎えるということはないだろうが、やはり50歳近くなってくると、いつ死んでもおかしくない、ということは十分あり得ることで、ならば動けるうちに動いておき、まだ見ぬものを見ておきたい、と考えるのは自然のことなのかもしれない。

幸福度が最も高まることは何か、というテーマで研究がいくつかなされているが、上位にあるのは物質の購入ではなくて、奉仕と旅行、らしい。

カメラ好きとしては耳の痛い話ではあるが、確かに物はいくら買っても満足はしない。レンズも然り。個人差はあるにせよ、大抵はその瞬間は満足するのだが、時間が経つにつれて最初の感動が薄れてくるのは確実で、間違いないだろう。

その状態をある学者は『チョコレートを口にほおばった瞬間の幸福と変わらない』と説明していた。なるほど。

奉仕については異論はない。人のために何かしてあげることを人間は喜んで行う。そして上手くいけば互いに幸福感を得ることができる。旅先で写真を撮ってくれと頼まれることがあるが、撮る側も(よっぽど忙しい時を除いて)、撮られる側も幸せになるという良い例がある。

旅行については、これは思い出という観点から幸福度が一番高く、長続きすると考えられているようだ。別に旅行ではなくても、思い出が残れば良し、ともいえる。

これも経験上は正しい。

旅の思い出ほど長続きする幸福感はないし、もしそれをかかった費用と同価で削除してもよいかと持ちかけられても間違いなく断るだろう。倍の価格で買い取るといわれても拒否するのは疑いようのない事実のように思える。

旅と写真がセットになるとさらに幸福度は増すらしい。これはカメラ好きとしては嬉しい調査結果であるし、だからこそ旅先では必ず写真を撮る。

写真は薄れていく旅の記憶を補填してくれるし、そこで撮られた美しい写真は、何より見ているだけで特別の、自分が気づかなかった世界へ連れて行ってくれる。

Beach before dawn

 

そんな理由から動画も撮っておいた方がいいのではと、スマホやカメラで動画を撮ることもあるのだが、イマイチ上手くいかない。

まず動画は撮影そのものに時間がかかる。具体的には撮影している間の時間がなんともやるせない。

もちろん写真でもロケハンしてセッティングして、構図を決めてという流れは多くの時間を要するが、撮影自体は一瞬である。

そしてそれがいい。

一瞬を切り取る、その感覚が良い。 撮影もスマートである。長々とその場にいたりしない。あたかも通りすがりにシャッターを切るように、その場の空気を邪魔せず紳士的に始めて、それから終わる。

さらに私の場合、フィルムのイメージがあるせいか、同じ場所の写真を何枚も撮ることはしない。多くても3枚程度である。よって2泊程度の旅でも100枚にも満たないことがあるが、処理の手間を考えるとこれで十分だと考えている。

ところが動画は、これは実際にやってみると向き不向きがはっきりするだろうが、私は向いていない。

前述の、モニターを見ながら撮っている時間の何ともいえない気まずさ、どれだけの時間撮ればいいのかの判断が曖昧なこと、手ぶれやチルトの問題、撮影が終わってからのその処理の膨大さ。

わずか数分の動画でさえ処理にはそれなりに時間がかかる。動画内のおびただしい映像のうち、何を残して、何を削除するか、トリミング後、元の動画は残すか、捨てるか、余計な音声が入っていないか、などなど。

そして、動画は何より生々しい。

やはり個人差はあるにせよ、人はその思い出を必ずしも生々しくあるがままに残しておきたいわけではないのではないか。

そこには必ず幸福度が高まるようにバイアスをかけているのではないか。だからこそ旅先で嫌なことがあっても、良い思い出として残せるのではないか。

そしてそれを可能にするのはやはりスチル(写真)なのではないだろうか。

あくまで私の個人的な意見だが、動画には想像力を沸かせる要素が、スチルに比べ少ないように感じる。

何気ない街並みの1枚のショットに意識が集中され感情が拡大されうることはあっても、例えばGoproで撮られたストリートウォーキング動画に心を打たれたことはかつて一度もない。

ちなみに映画は写真の連続であるため、通常の動画とは異なる立ち位置にあると思われるのでここでは同列には扱わない。

Off - season, quiet

ようやく秋めいた季節がやってきて、朝晩は心地よい風が吹いている。

もちろん、ゆり椅子にもたれながらどこにも出かけず自宅で読書する日々も私にとっては大切な思い出である。